
口内の悪性腫瘍、メラノーマ。
彼女の小さな体は、もう長い間、水さえも受け付けなくなっていた。ターミナルケアーを続け、ご自宅での点滴で命を繋ぐ日々。現代の獣医学をもってしても、彼女に残された時間はそう長くはない。
ある日家族が言った。
「安楽死をお願いします。」
食事も水分も摂れずただ横たわっているだけの姿を見るのが、もう耐えられないのだという。20代の息子さんと娘さんは、衰えていく彼女の姿に涙を流し救いとしての死を望んだ。
最後まで見守りたいと願っていた母親も、子供たちの悲痛な訴えに、最後は家族全員で決断を下したのだ。その日、診察台に現れた彼女は重い病を患っているとは思えないほど、その瞳は穏やかだった。まるで私に
「先生、もう大丈夫だから。」
と語りかけているような気がした。苦痛にのたうち回っているわけでもない命を人の手で止める。それが本当に最善なのか。それは安楽死なのか。安楽殺ではないのか…….私は、獣医師としてのわがままを承知で、家族に告げた。
「もう一晩だけ、一緒に過ごしてあげられませんか。」
家族は戸惑いながらも、私の言葉を受け入れ、彼女を連れて帰宅した。
その夜、奇跡のような時間が訪れたそうだ。偶然にも彼女を最初に保護したお祖母さまが、別の住まいから見舞いにやってきたのだ。
かつて命を救ってくれた恩人。そして、彼女を愛し続けた家族たち。全員が揃ったその夜、彼女は皆に見守られながら眠るように静かに息を引き取った。それは本当に奇跡だったのかもしれない。でも私は、彼女は待っていたのではないだろうかと感じた。頑張らなくていいんだと確信できる瞬間を。
助けてくれたおばあさんに「ありがとう」を伝え、私やスタッフに「さよなら」を告げるための時間を。
獣医師を志したあの日、私は「命を助けること」を夢見ていた。病気が治ったの喜びは何物にも代えがたい。だが、臨床の現場に立つほどに思い知らされる。獣医師の仕事は動物を治すだけではない。ペットと共に歩む「家族」の心に寄り添い、彼らが納得できる結末を共に探すことなのだと。
......自問自答は消えない。
「ペットのために」という言葉。それは本当に、言葉通りなのだろうか。時にそれは「愛護」ではなく、人間の都合を押し通す「愛誤」や、ただの「エゴ」になってはいないだろうか。
安楽死を止めた私の判断もある側面から見れば、死にゆく者にさらなる時間を強いたエゴだったのかもしれない。動物たちは私たちを頼りにしている。それ以上に、私たちは彼らに支えられ生かされている。彼らが与えてくれる温もりの前で私たちは常に無力だ。
あなたが最期に見せたあの穏やかな顔を私は忘れない。
私はこれからも答えの出ない問いを抱えたまま、命と向き合っていく。