【私小説】北の大地とハルと#1「出会い」

第一話|出会い

北海道の空気は、まだ冷たかった。大学の四年間の基礎学習を終え、今日から研究室に所属する。

春の日差しはあたたかく、新たな一歩を照らしてくれていた。これから2年間、研究室での生活がはじまる。研究テーマを与えられ、実験を行い、卒業論文を執筆するのだ。私は与えられたロッカーと自分の机に身が引き締まる思いがした。

犬が好きで獣医師を志した紗希。単純に好きだから犬の研究をしたいと思った。この選択が、のちに葛藤へとつながるのだが......紗希の所属研究室では、基本的に、先輩の研究の後を引き継ぐ形になる。犬の研究をしている先輩から仕事を教わることにした。

実験犬たちが暮らす犬舎には冷たいステンレスケージが並んでいる。その隅にじっと座ったメスのビーグルがいた。

「この子はハル。春に生まれたから、ハル。臆病なんだよね。」

東北の母の実家では、ポインターとビーグルを数匹飼っていた。本業ではないが、祖父と伯父は猟師である。その家に幼少期、両親の仕事の都合で一年ほどひとり預けられていた。犬たちは紗希の遊び相手だった。

紗希は、ビーグルがフレンドリーな犬種であることを知っていた。実家のビーグルたちはしっぽをぶんぶん振りまくる印象だったので、ハルのことが不思議に感じたのは確かだった。

大学の友人たちと笑い合っている最中、ふと自分だけが別の場所に立っているような感覚に陥ることがある。ケージの隅で気配を消して座っているハルは、まるで自分を見ているような鏡のように感じ、ふっと目を伏せた。

研究室では、犬舎当番があり、5年生の学生が順番で犬の世話をしている。当番でない日も、私の足は自然と犬舎へ向かっていた。

誰もいない夕暮れの廊下に、自分の足音だけが響く。鍵を開けると、ハルが小さく鼻を鳴らした。

「ごめんね。お待たせ。」

そう語りかける紗希の声は、いつか誰かにそう言って欲しかった、幼い私自身の祈りのようでもあった。

ハルとはずいぶん距離が近づいた。

実験の日になると、別棟の実験犬舎から、ハルを研究室の処置室に連れてくる。タイル張りの処置室には処置台(動物病院の診察台のようなもの)が2つ。処置室は真夏でもひんやりとしている。

学生達の主戦場である実験室とは、ドアひとつでつながっている。実験室には、遠心分離機や測定機器、試験管やフラスコなどが所狭しと並び、明るい日が差し込む。

実験の流れは、薬剤を投与して、採血をする。そして実験室で薬物の濃度を測る。その繰り返しだ。5分、10分、1時間、3時間、6時間、12時間……36時間まで続く。

私は保定係を行う。先輩が投薬と採血をした。保定する私の腕の中で、ハルは暴れることもなく、小刻みに震えていた。手のひらに伝わるハルの体温だけがその場所で唯一、確かな「生」の証のように思えた。

最初はブルブル震えていたハルだったが、1か月もすると私の顔を見ると、嬉しそうにしっぽを振るようになった。

「ハルは川谷には、ずいぶん態度が違うな。」

先輩に言われた。

だが、ハルが懐くほど、私は保定の難しさに直面していた。私の不安が伝わるのか、採血の瞬間にハルがわずかに身をよじってしまう。

「肘、もう少し深く抱え込んだ方がいいよ。その方が犬も安心するから。」

低い、落ち着いた声に顔を上げると、隣の台にいた直人が、ナナを保定したままこちらを見ていた。 大石直人。 成績も優秀で、いつもどこか一歩引いたようなクールな印象の同級生だ。

「あ、うん。ありがとう。」

教わった通りにハルの体を包み込むと、驚くほどしっくりと腕に収まった。ハルの震えが、少しだけ落ち着いた気がした。

「川谷さ、あんまり根を詰めすぎるなよ。」

直人はそう短く言うと、また淡々と自分の作業に戻っていった。彼の手つきは驚くほど優しく、迷いがない。

紗希はハルの背中に顔を寄せ、その温もりに鼻先をうずめる。独りきりで戦っていると思っていた私に、直人の言葉が、冷えた指先に少しだけ熱をくれた。

秋になり、先輩の実験は終了した。ハルと共に研究を正式に引き継いだ。ハルの飼い主になれたような不思議な錯覚に陥った。それからは、時間があればハルの元へ行くようになった。ボールで遊んだり、実験の無い日はごほうびを持っていくこともあった。

ひとりと一匹の穏やかな時間が、北海道の短い秋をあたたかく包んでいた。

――第一話・終わり――

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