私は東京生まれ東京育ちです。江戸っ子ではなく、地方出身の両親が上京して出会って結婚しました。父親は北海道出身です。北海道在住の人のほどんどそうであるようにその昔に移民の子孫です。明治時代に曾祖父が富山の越中八尾から北海道に移住したと聞いています。同じく雪国ではありますが、未開の北海道の地で一から始めることは並大抵のことでは無かったはずです。
越中八尾のこと、ファミリーヒストリーがずっと気になっていました。最近、点が線に繋がる機会があったので記事にしました。
富山の墓
当家の先祖代々のお墓は、昭和の後半まで富山にありました。北海道で亡くなった曾祖父、曾祖母、そして父の弟である叔父お骨も富山市の本法寺の墓地に安置されていました。調べて見たところ、本法寺は1316年に建立された観光名所でもある、お寺のようです。
三人のお骨は、昭和20年前半の交通事情が困難だった時代に、祖父が北海道から運んだそうです。北海道に新たにお墓を作る選択肢がなかったのか、何か富山に思い入れがあったのか、子供の頃からずっと気になっていました。道中、道央の赤平から小樽まで汽車で、そして小樽から船でお骨を三つも抱えての移動は今の時代でも大変なことです。
お墓は東京へ
両親は祖父が昭和47年に亡くなった後、富山の墓を片付けて、東京に墓を作ることにしたようです。 その際、祖母と父が富山に行き、曾祖父、曾祖母、叔父のお骨を引き取り、富山のお墓は墓じまいしました。
その後もしばらくは本法寺とのやり取りを続けていたようです。ご住職からいただいた達筆な筆文字で書かれた手紙は、子供心に大きな印象として残っています。
移住という名の逃避行
曾祖父が北海道への移住したのは、別天地に夢を描いてのことだと想像していました。曾祖父が単身で北海道に移り住み、そこで曾祖母と出会って結婚したのだと思っていました。
しかし、数年前に父から聞いたところによると、実際には二人は越中八尾で知り合っていました。周囲からの反対を受けていて、富山から一緒に逃げてきたのだそうです。そして北海道へ渡る際に、曾祖父は所有していた田んぼをすべて本法寺に寄付したそうです。
ご先祖様は、江戸時代には庄屋のような役割を果たしていと聞きました。墓じまいした当時のご住職は、そのあたりの事情もご存知だったと思います。ただ、この話については父の急逝でそれ以上のことはわかりませんでした。
道ならぬ恋と小舟での脱出
先日、叔母に久しぶりに会いました。話が富山に及んだときに
「曾祖母は妊娠していたの。曾祖父の子ではなく、他の男性の子供だったのよ。」
「二人は小舟で逃げたのよ。」
他の男性の子供とは?
え~~小舟??
帆掛け船なのか、手漕ぎの船だったのでしょうか。私は開拓団の大きな船を想像していました。当時の小さな船は蒸気船ということはなさそうですし、小さいエンジンもないでしょう。北海道までいったい何日かかかったのでしょう。無事に良くたどり着けたと思います。
祖父は4人兄弟の次男です。曾祖父母が次男である祖父と同居したのは、そのあたりのことも関係していたかもしれません。父親違いの長男は別世帯で近くに住んでいたそうです。
曾祖母の謎と魅力
祖母から聞いた話によると、曾祖母は厳しい人だったようです。縫物を習っているときに居眠りすると物差しで叩かれたそうです。その話からの思い込みもありますが、写真では背筋がしゃんとして、怖い体育の女性教師のような雰囲気がありました。元々恋多き女性だったのでしょうか。それともやむにやまれぬ事情があったのか。
曾祖父母の波乱万丈な人生は、八尾の豊かな自然と特別な時間が作ったものではないかと想像しています。もう二度と戻ることができない八尾という土地を心から愛していたのかもしれません。だから祖父わざわざ八尾までお骨を運んだのだと思っています。
越中八尾と言えば、おわら風の盆。
「見たさ 逢いたさ 思いが募る。」
以前この本を読んだので、余計に妄想が広がっている子孫の私です。